1997-03-05 1997-03-11 13:00開演 東京宝塚劇場
雪組のはビデオで観ていたのだけれど、やはり、ビデオはビデオである。今さらながら、そんなことを思った。おまけに、雪組ビデオでの最大の信じられない点である、「トートのビヨヨヨーン」の理由がわかった。エリザベート(白城あやか)が死ぬときにトート(麻路さき)が「エリザベート」って云うところ、実際にものすごいエコーがかかっているんだもの。きっと雪組の時も同じだったに違いない。編集時に音声も加工したのではなかったのか。あれぢゃ、ああやりたくなるわ。なにもあんなエコーかけなくても良いような気がするのだけど、そこは演出の小池氏と私の感性の違いだろう。ウン。きっとそうだ。
私が一番観たかったのが、「ウィーン郊外のある総合病院」。病院訪問なんて、なんだかダイアナみたいである。エリザベートの衣装もさることながら、全体に大好きな場面で、エリザベートの不幸せさを際だたせる逸品の場面。ヴィンディッシュ嬢(陵あきの)は、妄想の住人となってしまった分裂症患者である。彼女の現実は一般人にとっての非現実であるが、エリザベートにとって果たしてそうだったろうか。エリザベートが望んで止まない「自由」を、社会から逸脱したこのヴィンディッシュ嬢は持っている。(しかし「皇后エリザベート」は「病院」という宮廷の中で自由に振る舞えないのである、というのは、深読みのしすぎ?)ちなみに、「スターレイ夫人(万里柚美)をやらされている障害のある患者」をしていた下級生(オペラグラスがないとこういうときに困る。誰だか判らない)が可愛かった。
一番躍動感を感じたのが、ハンガリー独立運動。オーストリアがここでハンガリーを独立させなかったのが、後々第一次世界大戦の引き金にもなり、ひいてはセルビア紛争の火種ともなる。市民の波のような「ワー」というかけ声が実に力強くて、鳥肌ものである。そのかわり、革命家のシュテファン(久城彬)、エルマー(湖月わたる)、ジュラ(彩輝直)たちが目立たなかった。
トートはエリザベートの中にある「死」が具象化したものだけれど、エリザベートが「生」を意識したときにトートが現われるのが、興味深い。逆に第12場「葬儀」でエリザベートが死を意識したときに死神であるトートがそれを突っぱねる。理由は「まだ私(トート)を愛してはいない」≒死を逃げ場にしているからだけど、案外エリザベートが生きることに固執しているのではないかと思った。例えは悪いが、自殺者の霊が浮かばれないということとよく似ている。だから裏を返せば、エリザベートが生きることに懸命になっているときにトートが現われるのだ。「最後のダンス」でトートが歌っているように、エリザベートはトートに微笑みかけていたのである。(ハンガリー版では、死んでもエリザベートはトートにはなびかないらしい)
それに引き替え、ルドルフ(絵馬緒ゆう)とトートは、エリザベートとトートの関係とは違う。ルドルフはあっさりと死を引き受けてしまう。エリザベートが木から落ちて死んだとき既に「私を帰して」とトートに言っているのとは反対に、ルドルフ少年(月影瞳)はトートと友達なってしまうのだ。トートが現われ出てくる土壌、二人の立場が同じであるにも関わらず、トートとの関係の違いからこの二人は完璧は鏡ではなかったように思う。
当然といえば当然だが、雪組とは若干解釈の違いがみられた。例えば「エリザベートの居室」の場面。フランツが「扉を開けておくれ」と歌っている間、雪組ではエリザベートはひたすら筆を走らせているが、星組では最後通告は既に書いてあってエリザベートは扉へ寄ってフランツの言い分を聞いている。
エリザベートとフランツという二つの異文化をお互いがどう理解するかという点において、決定的な違いが生じているのである。雪組ではエリザベートは自分が一番大切という考え方に基づいている。相互コミュニケーションがゼロに近く、理解しようとして誤解を招いているより、フランツなんて眼中にない感じを受けた。星組は、そこのところはまだコミュニケーションはとれているわけで、誤解はしているが理解しようとしている。しかし誤解の末に二人の仲は相容れないものとなってしまうのだ。まあどちらにしても、ルドルフがエリザベートのことをよく解っていなかったというのが原因。ひいては、ゾフィーのせいでもあるのだが。
また、その前の「ウィーンのカフェ」で、雪組ではトートはテーブルにむかって新聞を読んでいるのに、星組では単に正面を向いた椅子に腰掛けて新聞を読んでいるだけである。これは解釈というより演出上のことで、もしかしたら大劇場ではテーブルに向かっていたのかもしれないし、雪組も東京では椅子だけだったのかもしれないから、一概にはいえない。でもちょっと不自然である。
3月5日は、オーケストラの音のほうが出演者の声より大きかったのだが、11日は、そんなことはなかった。そのかわりマイクのボリュームを上げたのか、それぞれの声の大きさのバランスがとれていなくて不自然な気もした。人間と区別する為なのか、トートの声に若干のエコーがかかっていた。そこはエリザベートのほうがメインでは?という歌でもそのためにトートの声が勝ってしまっていたのは、気のせいだろうか。
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