1998-06-30 宝塚大劇場
なんだ、ただのマザ・コンの話ぢゃん。つまんないわけではなかった。でも、話の展開に納得が行かない。暴君ネロの話だからどうなるのだろうと興味津々だったけれど、なんてことはなかった。素材的はとても興味深いし、うまくいけばものすごくスケールの大きい話になるはずなのだ。プロローグだけ見れば、すごく期待させるし。しかし、素材(つまり題材)のどこを生かしてなにを作りたいのか、これがはっきりしていない。結局、なにもかもが中途半端な印象を受けた。料理の仕方が悪いのだ。
ネロがどうして暴君になったかが、この話の主題のはずである。しかし、その「なぜ?」の答えに説得力がない。ネロの歴史を追っているわけでもなし、なにを言いたかったのかがわからない。実際にネロに与えた影響は大きいのはわかるが、母アグリッピナとの絡みに比重を置きすぎて、母親殺害後のエピソードが駆け足である。バランスも悪い。
また、場面・設定の多くが、過去の植田作品から持ってきているのが気になった。例えば、親衛隊による「剣の舞」。これは「この恋は雲の涯まで」の、義経暗殺をもくろむ剣舞である。親衛隊はアグリッピナ暗殺を謀るが、ネロに拒まれて失敗に終わる。ネロは張栄勲である。死刑を宣告されてネロに命を助けられた解放奴隷の、ネロを逃がそうとする行動はまるで「紫禁城の落日」。小池氏や太田氏のような、ひねり・パロディ化があればまだしも、まるっきり同じなのはどうかと思う。ローマ兵及び元老院の衣装も、「スパルタカス」(1992 花組)そのままなのは、能がないのではないだろうか。
それに相変わらずセリフが説明口調で長い。普通に喋っているかぎりでは、四字熟語は使わない。決意表明か何かじゃないんだから。会話で「邪知奸佞」「頑迷固陋」「罵詈讒謗」なんて自然に口からでてくる方がおかしい。しかもこの熟語固まって出てくる。言葉として発せられる間隔が短いので、聞いていても不自然だ。脚本を書いていてなんとも思わなかったのだろうか。説明的といえば、オクタヴィアにネロの功績を説明する侍女がいるのだが、その中で具体的な数字を挙げるのも問題である。いきなりそこだけ現在日本で使われている単位になるのも聞いていておかしい。「宝塚アカデミア1」で石井徹也氏が指摘した、宝塚を馬鹿にされない手段だとしても、観客にわざわざ説明する必要はあったのだろうか。具体的数字よりも、なにかと比較したほうが印象に残りそうなものである。会社の面接ではないのだ。(例えば、「巨像が32メートルある」というのを「あの丘ほどの高さがある」とか、「黄金宮殿はあの地平の彼方まで広がっている」とか。50万平方メートルといわれてその広さが想像できるだろうか) それにしたって、オクタヴィアは自分の兄であり結婚相手のしたことぐらい先刻承知なはずであるので、わざわざ侍女に説明させる必要もないと思う。
ネロはアグリッピナに過保護に育てられた。子離れできない親に親離れできない息子。今までの宝塚ではみなかった話である。でも、宝塚で、しかも麻路さきの退団公演ですることもないだろう。宝塚の主役男役がマザコン役をするのはなんだかな〜 母の面影を最後まで引きずるってのは…… アグリッピナはいまわの際で、長ったらしく悪役に徹した理由をわざわざ告白する。だからネロは、今度は母の名誉を守るために自分が悪役になる。暴君になった理由としては、これでは弱いのではないだろうか。
物語全体の半分ぐらいをアグリッピナとの絡みにしたのも、まずい。オクタヴィアもシーラヌスも、完全に脇役。おまけにアグリッピナはネロに近親相姦を迫るのだけど、はっきりいって、邦なつきだと色気不足で(これがかえって生々しかったりもするのだが)、危なくも妖しくもない。ネロを犯すぐらいの気迫がほしかった。
オクタヴィアはネロの妻で彼を慕っていたけれど、そういう事情で愛情を深める場面はない。愛情を深めるどころか、「血が繋がっていないとはいえ、妹だから妻としてみることはできない」「妹だから抱けない」と言われる。しかも、最後に突然「すべてを失った今、君だけが僕の妻」(←これってなんか都合よくないか?)みたいなこと言われてキスシーンもあって、おいおい、なんだよそれ。妹としてみているんだったら、それを最後まで全うしてほしいぞ。仮に、途中で妹から妻というふうに視点が変わったとしたら、どこかでネロのその心変わりを書かないと、本当に唐突なのである。オクタヴィアも、どういうふうにネロを慕っているのかがわからない(言葉としては出てくるが、具体的行動はない)。
初日から5日目ということもあってまだ、あんまりこなれてなかった。東京公演になったらもっとよくなっているかもしれない。しかし、どうしてまた石田昌也氏が演出を一緒にやっているんだろう。きっと植田さんは理事長だから忙しいに違いない。だったら、理事長をするか演出をするかどっちかにしてもらいたい。石田氏には彼の作風や作り方があるはずである。それを矯正する意味でコンビを組んでいるのなら、もうおしまいである。
最後に燃える宮殿のなかスモークをいっぱい焚くけれど、植田マジック、っていうかお香を焚いていた(もしくは何か燃していた?)ので、一瞬誤魔化されそうになってしまった。あの匂いたまりませ〜ん。
私はヘミングウェイが嫌いなので「ヘミングウェイ〜」と思っていたのだけど、このショーでは、よかった。セットのカジキマグロも素晴らしかったけれど、波を表している吊りものも、ライトによって、黄昏時の海、カリブの海、アフリカの海と変化するのがよかった。それに、もう終わりなの、と思えるショーだった。麻路さきがこれでさよならだ、という部分もなきにしもあらずだが、終わってしまうのが残念に思えた。内容は結構パパラギに似ていたりするし、黒天使も出てくる。全体の印象から云うと、カッコイイ、ショーである。
一番かっこよかったのは黒天使。もといヘルズ・エンジェル(彩輝直・音羽椋)。黒の衣装に赤い髪、男でもなく女でもない。中性ではなくて、セックスレス。無表情。死を具象化したときの描写は、やっぱりこれでしょう。それで、この地獄の天使が現れると、陽気な場面がいっぺんに妖しくなる。これがまたいい。それで統一してあるから、彼らの役割がはっきりしていたし、いっそう引き立つと云うものだ。「エリザベート」のトート閣下もそうだけど、死に惹かれる気持ちは死がすごく魅力的にならないとだめだから、彩輝と音羽は美しかったし、とても好かった。
ヘルズエンジェルが登場する場面のなかでは、特にイタリア戦線(第一次世界大戦)がよかった。一番好きである。ここは、まず衣装が「サジタリウス」(1994 雪組)の「情熱の星」で、もともとナチスの軍服をイメージして作られたものなので、超格好いい。ソルジャー(伊軍になったり同盟軍になったりしているようだ)とヘミングウェイのダンスも好いのだけれど、そこへ登場するのが従軍看護婦のアグネス(星奈優里)。最初は撃たれたヘミングウェイを介護しているんだけど、例の死神がでてくると、可憐なのが一転して彼を死へ誘う。顔つきも急に変わる。セットの坂(けっこう傾斜がきつい)をダーッと駆け上がるのもすごい。一気に上らないと途中で足を取られるはずである。足腰が強いんだなあ。それにしても、星奈優里は、星組に戻っても誘惑役を振られるし、これがまた似合ってしまうのだ。「目指せ!白城あやかの連続誘惑役記録突破」なのだ。
誘惑役というと黒っぽい衣装が多い。でも今回は白い衣装なので、かえってそれが妖しさを増長させていたような気がする。黒色はブラックホールを連想して、こっちにいらっしゃ〜いっていう感じだけど、白と透明は何色にもなれるから、かえって純粋に妖しいというか、なに云ってんだか。それに、ほかのショーではそんなこと思ったことはないのに、今回、星奈アグネスが麻路ヘミングウェイの足の間をくぐるのを観て、エッチだなあと思ってしまった(「パパラギ」でも神学生・麻路に絡む聖少女・白城を観て同じことを思った)。あれは何だったんだろう。
そして第二次世界大戦の場面である。といっても、戦場ではなくて地下のクラブである。最初は「パパラギ」のシャンパン戦争っぽくておもしろいのだけど、やはりヘルズ・エンジェルが出てくると一転するのだ。ヌッと現れるのが、一寸先は闇と云うんでしょうか。退廃的な雰囲気やちょっとアブ・ノーマルな感じ、みんなが操られているような様子になって、それが、結構気に入っている。
ただ、ロケットダンスなのだけど、前にストラップを持ってくると足が太く見えるので、ちょっと気にして欲しかった。銀橋で顔見せするところで、星奈さんは他の人(ていうか麻路さきと稔幸)と比べて、二階にあまり目を配っていなかったようなので(実際はわからないけど)、二階は確かに席はガラガラ、人もあんまりいなかったけど、でも全くいないわけではないのだから……
これでもう、星奈優里と麻路さきとのデュエットは一応最後である。星組にいた頃から麻路と組むことの多かった星奈は、本当に勝手知ってる麻路とトップコンビを組むことができてよかった。後ろを見ればマリコさんが絶対いるという安心感があったのではないかと、思っている。
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