宝塚歌劇団星組 「皇帝」「ヘミングウェイ・レヴュー」

1998-10-30 13:00開演 宝塚1000days劇場


「皇帝」

はっきり言って、おもしろくない。おもしろくない所以は、私が星奈優里が好きである、という個人的事情もある。それを差し引いても、だいたい内容があまりおもしろくない。褒め言葉は見つからないな〜。つっこみポイントはいっぱいあったし、実はつっこむ場所を探しているほうがはるかに楽しめる(がだんだん虚しくなってくる)作品だった。

相変わらずの植田芝居というか、麻路さきのサヨナラでなければおそらく観に行く気にはならないのでは?という具合。最後のほうで周辺から鼻をすする音が聞こえたが、風邪で鼻がでるという以外だったら、麻路さきが最期だから(オーバーラップしてしまった)、という理由でしかあり得ない。ていうかそうなんだけど。お話に感動したからではない、と断言できるのだ。

大劇場で観たときより、アグリッピナ(邦なつき)が悪役に徹した理由は理解できたが、いかんせん、ネロ(麻路さき)が暴君になるきっかけとしては弱い。『歌劇』(1998年8月号 宝塚歌劇団刊)天野道映氏の公演評によると浄瑠璃の手法を用いているらしいのだが……

私にはどうしたって「強靱な精神を持った」(植田紳爾氏のプログラムによるコメント)以前に、母親を殺しても心理的に独立できない姿が見えてしまう。親の悪行を引き受けることは、ネロが「優しい」証拠であり「実はものすごく傷つきやすい」のではないか、と思えてくる。母の愚考に傷つき、自分の行為に傷ついている。それとオクタヴィアに対しても、「妹だから抱けない」という兄としての優しさではなく(当時近親相姦はそんなに珍しくないと思うのだが)、良くも悪くも母の存在が大きすぎて、オクタヴィアに対して臆病になっているような気さえしてくるのだ。ちょっと深読みすぎるかな? そういった意味ぢゃあ、扱っているものはローマ帝国の「暴君」ネロだけど、題材的には割と現代的なのかなあ。植田氏はそういうところを計算して素材選びをしているとは思えないが、凄い。

前半部分アグリッピナ(これは息子のために「仮面を被って」いた仮の姿なのだが)とネロに力点を置いているために、全体を通してネロとそのほかの人(セネカも含む)との関係が希薄である。しかもアグリッピナ関係にたっぷり時間をとったため、暴君になってからのネロはちょろっと。皆を退席させて独り暴君を演じるやるせなさ(?)をぶつけるとこはあるけど、すぐにネロの最期になってしまう。また、アグリッピナとの絡みばっかりで、「相手役」であるオクタヴィアとはサラサラサラ……と流れていく。史実ではオクタヴィアは割と早い段階でネロに殺されるのだけど、『皇帝』の場合はネロと最後を共にする。お芝居半ばでトップ娘役を殺すわけにはいかないと云う配慮なのかな? でもそのせいでオクタヴィアの人格が破綻しているよ。オクタヴィアのテーマ曲もないし、デュエットも一曲だけだし。って、これはちがうか。

ほとんど説名台詞で埋め尽くされ(ト書きに書いてあることをわざわざ言わないでくれ〜)、ドラマがちっとも盛り上がらない。メートル法はやめよう。表現が具体的すぎて、実際どのくらいなのかわからない。だからあそこは当時の単位でいいのだ。わからないから「あ〜、広いんだ〜、高いんだ〜」と逆に思えてくる。それか、なにかと比較するとか。「あの丘と同じ高さ」とか「地平の彼方まで広がっている」とか。植田氏は親切のつもりなのかもしれないが、小さな親切大きなお世話なのである。あと、四字熟語。字で見てもなんとなくしか意味が掴めないのに、聞いただけですぱっと意味が理解できるか、バカ。会話でいきなり「邪知奸佞、頑迷固陋、罵詈讒謗」(←アナウンサー研修でも云わない)「権謀術策」(←違うか)「非道無惨」(←四字熟語ではないけれど)「淫靡淫乱」(←2回云う)「残忍卑劣」(←これはいいとして)「傲慢不遜」(←オクタヴィアおまえもか〜)って言うかなあ。狙っていない限り会話中に四字熟語なんて使わないって。そうそう「ジュリアス・シーザーに溯るユリウス家」ってヘンだ。だったら「ユリウス・カエサルに溯る」か「ジュリアス家」って言ってほしいなあ、「Julius Caesar」なんだから。英語かラテン語か統一しろ。それと、いつも指摘されていると思うのだけれど、台本が読み言葉なもんで、一回目を通すとだいたい舞台が想像できてしまうのは、考えもの(漢字にいっぱいルビを打ってあるのも)。頭で場面を組み立てられるし、だいたい考えたとおりに人が動いたり物事が進むからつまらない。舞台で演じるためではなく、人に読ませるための台本を書いているのかな、植田氏は。

個人的に一番よかったのは、ネロとオクタヴィアのキスシーン&殺害場面なのだけど、それ以外では、シーラヌスがオクタヴィアの屋敷に忍び込んできたところ。オクタヴィアが思わずシーラヌスに寄り添ったとき、彼はぎゅっと彼女を抱きしめる。私が座った位置からだとオクタヴィアは背中しか見えなくて、本当はどういう状態だったのかわからないのだけど、とにかく、オクタヴィアの、からだが抱きすくめられて硬直した感じが観ていてきれいでした。背中だけで「いけないわ、シーラヌス」という感じがでていて好きだなあ(そういうの得意だもんね星奈さん)。でも私的には大劇場の時のように思わず唇を合わせる(時にネロがやってくるので未遂に終わる)っていうのがいいんだけどね。

内容には期待できないから、植田作品は特に、パーツパーツを楽しむしかないのだ。


「ヘミングウェイ・レヴュー」

『イコンの誘惑』は観ていないけど推測するにきっとおもしろい作品であったろうから、『イコンの誘惑』と『ヘミングウェイ・レヴュー』の組み合わせが、この麻路さき退団公演だったらよかったのに、と思わずにいられない。それほど芝居は観ていて刺激がなかった。しかしその分『ヘミングウェイ・レヴュー』は、観ていて飽きないし見所満載である。感覚的なショーだし、観客に体力を要しないし、ぼーっとしてたら損はするけどわからなくなる、というものでもない。

どの場面も完成度が高く、中途半端な印象は抱かない。一番好いのは、誰が何と言おうと「イタリア戦線」である。ヘミングウェイの一生の中でも、アグネスと出会うなどターニングポイントになっているが、このショーでも、ここでの死への誘惑が、後々のヘミングウェイ自殺にまで関わってくる、重要(と私は思っている)な場面。伊軍とのダンスも格好いいが、やはりアグネスとの絡みが一番だ。星奈優里の坂(わりと端のほうで観てたので、傾斜がかなりきついことが確認できた)を駆け上るその強靱な足腰もそうなのだけど、天使アグネスから悪魔アグネスへと顔つきが急激に変化するのもただただ感嘆するばかりである。さすがだ。これはもう、誘惑役は星奈さんの真骨頂である。麻路ヘミングウェイは、本当に死の誘惑に翻弄されていた。

プロローグは格好いいし、ラッセルの子供時代もノルさんが楽しいし(ヒヒッ、と笑うのが可愛い)中詰めのアフリカのところは、セットがシマウマ模様…… 個人的には大劇場の時の、ポリゴンのキリンもみたかったなあ、なんて。でも明るくたのしい。

天国の門は、「威風堂々」が流れてくると、もうおしまいなのか(ショーが終わってしまうのか、というのと麻路さきのサヨナラか、という両方)、と感じる。ショーの流れや場面のタイトルからのイメージだと、死んだヘミングウェイを迎え入れる、という感じなのだが、どちらかというと「送り出す」意味合いのほうがはるかに強い。「死」=宝塚生活に終止符を打つ(「麻路さきの死」に繋がる 彼女の場合、退団後は芸能活動をしないので、特に)あるが、一抹の寂しさを感じる。

最後に。わたしは麻路さきにはものすごく特別な思い入れはないが、宝塚を初めて観たときから独特な存在で、確かにいつでも意識はしていたと思う。歌もそんなにうまくないし、セリフは聞き取りにくいし、けれど目がいってしまう。そんな不思議な人だった。全然タイプは違うのに、紫苑ゆうが盛んに口にしていた「男役の美学」を見事に引き継ぎ体現していた貴重な人だったのではないだろうか。「ヘミングウェイ・カクテル」やフィナーレのダンスを観ながら、そんなことを思った。


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