1999-04-18 18:00 開演 最終ピエルベットアルバイト
はじめに、「女の子の友情の話」で「残酷な物語」と聞いていたので、『乙女の祈り』のようなものを想像していたのだけど、全然違った。当然か。そして、相も変わらず、観たあとで感傷的になって、かなり偏ったおかしな感想になってしまっていることを、はじめに断っておく。
アンデルセンの書いたものに「王様とカナリア」(←「ナイチンゲール」です)という話があるらしく、それがモチーフになっている。機械仕掛けのカナリアを手に入れた皇帝は、今まで飼っていたカナリア(←ナイチンゲール)が疎ましくなり、追い出そうと鳴き声合戦させる。目論み通りカナリアは負け、ショックを受けて王様の前から姿を消す。時は流れて機械仕掛けのカナリアは壊れ、王様は失意のどん底に落ち、とうとう死にそうになる。それを知ってカナリアは美声を聞かせて皇帝はそれを聞きながら死んでいく、というお話だ。
内容が暗い。主人公・鈴枝(桐野薫)も暗い。独りでいることに少しは焦燥を感じつつ、思いこみという強い意志によって、独りでありつづける。意識してバリアを張っちゃってて、でもそのバリアを壊そうとするんだけども、そういう時に限って努力が無になってしまう。
鈴枝みたいな経験あります。自分で云うのもなんだけど、私にも彼女みたいなところは多分にあるし、「(他人に任せるより)結局自分でやっちゃったほうが速いんだよね〜」という、若干の人間不信のキライもありますよ。会話も「ふ〜ん、それで?」で切っちゃって相手の人は二の句が継げない・・・ってこともしょっちゅうさ。なものだから、鈴枝を見てると、イライラした。だから葉子(鉄村夏芽)が「気の合いそうな人がいたなら話しかければいいぢゃん」みたいなことを言ったときに「そうだよー」と思うし、「できないよ」という鈴枝の言ってることもわかるんだけど、だんだん腹が立ってくるのだ。なぜなら、自分を鈴枝に投影しちゃっているから。
ただもう、本当に救われない話で、「私も一緒にお茶していい?」という言葉をかけようとしたときに、扉の向こうから葉子の「鈴枝は鬱陶しい」発言を聞いてしまう。鈴枝は大学生だけど、人間関係は葉子としか築けてないから、裏切られたと思ったことだろう。だから、葉子のカナリアを殺してしまうのだ。きっとそうだ。短絡的にそうしたのではない。その言葉で、葉子のカナリア=ふわふわした温かいもの=葉子の支えではなかったという、今まで漠然と感じてはいた不安、目をそらしてきた認めたくない事実に直面したのと、カナリアさえいなければ、という思いが交錯したに違いないのだ(断定)。
前回の『最後の素足』は、金欠&観に行く予定の日に雪が降ってしまった&昼間宝塚を観てあまり期待に添う内容ではなくて疲れてしまった&タイトなスケジュール&バイトによる肉体疲労、のため、面倒臭くなって行かなかったのです。今年の風琴工房は、不定期公演である「風の標本箱」シリーズと、通常公演で、鉄村夏芽がレギュラーだそうだ。
鉄村夏芽は、カスパー少年(『カスパー彷徨』1995.12 コバヤシ初の風琴体験)が異様に印象に残っている。彼女が入ったからってわけでもないんだろうけど、舞台に動きがでて(件の童話のところ 音楽も格好良かった 生演奏というのも佳い)、そのおかげなのかなんなのか、一昨年前の「病の記憶」シリーズよりも精神的疲労感は少なかった。
とにもかくにも、なかなか自分でわかっていながら認めたくなかったものを、ダイレクトに見せられ、思わず自省してしまう舞台だった。とかなんとか云いつつも、終演後のパーティーにはお茶の一杯も頂かずに帰ってきてしまった。いけないなぁ。
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