宝塚歌劇団月組 「螺旋のオルフェ」「ノバ・ボサ・ノバ」

1999-09-10 13:30開演 1000days劇場


「螺旋のオルフェ」

8月に一回観たときより、格段によくなっていた。それに、ちゃんと宝塚の作品になっていた。客席で「宝塚観てるんだ」という実感があったのは、風琴工房を観て「違うぢゃん」と思ったこともある。それだけ前回変な思い入れもあったし、2日目落ちもあったのでしょう。

オープニングのイヴのモノローグは、抑揚をつけないで喋ろうとしているのが、セリフはとても好いのに地べたを這っている感じで、私の中で違和感がある。抑揚をつけないのではなくて、低温で無表情であれば、言うことナシなのだが…… アデルの檀れいもアデルのほうが役作りは楽と云ってたがちょっと無理してるように感じられたし、鬘のせいか何なのか頭でっかちにも見えた。だけれども、『螺旋のオルフェ』は70分で細部を端折っている分、妄想する余地がたくさんある。イヴとアデルの出会いとか、イヴはどうしてアデルに情報を売るようになっていったのか(恋に落ちたから?そんな単純ぢゃない気がすると思わせるのは荻田作品だからだろうか)とか。

アデルとルシルが年の離れた姉妹なのに皆が見間違うほど似ているのはなぜ?って思ったが、それはきっとイヴだけではなくレジスタンスの仲間もアデルの死にこだわりがあったのかもしれない。アデルを殺したのは裏切り者とはいえナチスのイヴ、イヴはアデルの恋人、アデルはレジスタンス、レジスタンスである自分たちはアデルを救えなかった、という具合にいつも心に引っかかっていたのではないかと。アデルはパリの街を彷徨っていたのではなく、彼女の死にわだかまりを持つ人たちによって本当の意味で成仏させてもらえなかったのかな〜、と思ってみた。しかしこの姉妹、ベルギーから逃げてきたとずっと思っていたのだが、ベルリンだと知ってなぜだか愕然としてしまった。ベルリン・・・のほうが逃げて来るには状況はピッタリ・・・

イヴに対してアデルの霊を呼び出すという役割を担っていたアリオンの紫吹淳は、むちゃくちゃ清春に似ていた。格好良すぎる。


「ノバ・ボサ・ノバ」

先代トップの久世星佳さんが来ていた。というのは置いておいて、真琴つばさも大和悠河も思いきり音をはずしていたのでビックリよ。そして、真琴つばさとデュエットしているとき、檀れいの声は、どういうわけかマイクの音量が絞られていて全然聞こえなかった。しかし、それでも檀ちゃんは随分と楽に呼吸していてよかった。2日目に観たときは、遠慮してるように見えてかなり辛かったものね。彼女といえば、ボーアス・カルナバルのところで「ふっふ〜」と幻の声を聴いてしまったので、思わず笑いそうになってしまった。でも、「オララララ オレレ〜 ふっふ〜 オララララ オレレ〜」はきっと、どう対応していいんだか困る笑いを誘いそうだから、止めて正解かも。

相変わらず、もたっとしている。一番気になったのは、冒頭のボーロ(花瀬みずか)の動きが緩慢に見えてしまったこと。これがいけない。これが後々まで引きずるのだ。もう、初っ端から弾けていない。加えてマミさんは音はずしているし。あとリズムがこれ以上速くはできないぎりぎりのところでやっているから、舞台が切羽詰まっている感じなのだな。「アマール・アマール」がどうしてそんなにアップテンポなのだ〜。あと、アデーウス・カルナバルで、伸びのびとした開放感も得られなかった。鋭角性に欠けるように感じてしまったし、スパッすぱっと動いていない、というのがもどかしかった。それとも雪組を観て目が慣れてしまっていたのだろうか。

真琴・檀コンビは組んでまだそんなたってないので(地方があったので2作目だが)、ソールとエストレーラの組み合わせはよかった。エストレーラはリオのカーニバルを見にわざわざやってくるような上流階級のお嬢様だが、右も左もわからない土地で固くなっている雰囲気は、トップ娘役になりたての檀ちゃんの立場とフィットするし、そんな彼女を解すソールもマミさんと重なる。ボア・タールデ・カルナバルで、ソールとエストレーラのラブラブ爽やかさんふたりと、オーロ(紫吹淳)とブリーザ(千紘れいか)のこってりなふたりの対比が好きだ。

オブリガードのブリーザは、「マールも行っちゃったし帰ろっかな〜」と歩き出したもののまだちょっとマールのことが気にかかる風な作りとみたり。しかしその後いきなり抱きついてきたオーロがこの上なくいやらしくて、これで躯が熱くならないわけがないというラブシーンを展開していた。月組の『ノバ・ボサ・ノバ』の特徴は雪組よりも(と、比較してしまった)、エッチ度が高かったってことでしょうかね。


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