宝塚歌劇団宙組「ファントム」

2004-08-03 18:30開演 東京宝塚劇場


ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』を元にした、アーサー・コピット脚本、モーリー・イェストン音楽によるミュージカル『Phantom』の宝塚移植版。Overture もあり、メロディやハーモニー、音の掛け合いひとつとってみても「海外ミュージカル」の薫りがたっぷりである。オペラ座なだけにクラシカルな雰囲気だったり、エポック・ド・パリのざわざわした感じだったり、またそれぞれの楽曲も印象に残りやすい。コーラスも迫力がある。(シャンドン伯爵だけはアメリカンミュージカルで、演じているのが安蘭けいと云うこともあって、巴里の陽気なアメリカ人かと、暫く思いこんでいた。) それでも、「Phantom Fugue, Part2」など、男声が入ればもっと厚みが出るのだろうな、と思ってしまったところまでが「海外ミュージカル」。しかしその反面、宝塚らしい華やかで美しい「ファントム」で、特に、ファントムの従者が有無を云わさずビジュアル系で攻めてきているのには、擽られてしまった。

演出も大劇場とは多少変化があったが、大々的に改善されたのはラストである。大劇場では、クリスティーヌ(花總まり)と死んだ筈のエリック(和央ようか)が、何故だかファントムの小舟に一緒に乗るという、ある意味非常に宝塚ちっくな(と云うか『エリザベート』っぽい)図柄で、「なんでだ」という疑問を残してしまっていた。それが東京では、クリスティーヌはファントムを偲んで歌い退場しそのあとをエリックが引き取る、と云う具合にふたりを別次元として扱ったことで、ずっとスマートになった。どうしてこれが大劇場の時に出来なかったのかが不思議。

『ファントム』は、エリックとキャリエール(樹里咲穂)の親子愛にポイントが置かれているため、エリックの設定年齢も若くなり青年である。オペラ座の地下に閉じ込められて育てられ外界との接触がないことで(ここ、一瞬カスパー・ハウザーを想起させた)、人間なのだけど他の人とは一線を画しており、それが故に純粋であり極端に走りがちになるのかなと。また和央ようかが、善悪の区別を付けないでひたすら真っ直ぐ自分の愛した者を求める姿が似合うのだ。クリスティーヌが歌の先生としての信頼と、エリックの生い立ちを聞いてからの彼に対しての慈しみを感じさせるだけに、彼女がエリックの素顔を見て逃げてしまうところの慟哭は、ひたすらに切なく悲しい。またそれがあるから、死に際、クリスティーヌが、エリックにとってまるで母ヴェラドーバ(音乃いずみ)のように、彼の仮面を外し顔の傷にキスをしたことで、安心を手に入れることが出来て本当によかった、と思うのである。(演出的にもかなり聖母子像を意識してそうな感じはしたけど)

見所は他にも多いのだけど。従者達。彼等はエリザベートの黒天使を彷彿とさせるが、どういう存在なのか今ひとつはっきりしない。しかし「美しいものが必要」と云うエリックの従者だけあって、見目麗しい。彼等を見ているだけでも、チケット代の半分は還元されたと思っている。冷静に影に徹する従者ではあるものの、キャリエールが解任され、カルロッタ(出雲綾)の酷い歌声を聞き、彼女がオペラ座を取りしきると云うことを聞かされた時の、動揺っぷりがおかしかった。それにしても、従者は何者なのだろう。幼い時より、エリックに勤めるように集められたカッコイイ男の子──で、欠員が出たらスカウト──とか、オペラ座地下に跳梁跋扈している異界のモノとか。歌の個人レッスン中のカルロッタを脅かしたのは、従者が人以外の何かでないと、ちょっと説明しにくい。

原作では、建築業者として秘かにその粋を尽くしてオペラ座に仕掛けを施したので、エリックは怪人として振る舞うことが出来たのだが、『ファントム』では、幼い頃よりオペラ座で育ち自分の家のように(実際そうだが)隅々まで知り尽くしているのと、人であれ妖怪であれ従者達を動かすことによって、オペラ座で不思議を見せていたのかな、と感じた。


@home > impressions2004 > Phantom