風琴工房「雨の森 砂の国 〜月の熱帯 '99〜」

1999-09-05 14:00開演 ザムザ阿佐ヶ谷


ザムザ阿佐ヶ谷は新しくできた劇場で、地上2階・地下1階の建物の地下がそうである。Laputa阿佐ヶ谷という映画館が2階で、1階のレストランは山猫軒という。フィットネスクラブの角を曲がると、そこだけ世界が違って見えるのは、いかにもといった名前とその名前の雰囲気通りの造りだからだろう。

風琴工房が「どんぺい劇団」と名乗っていた頃の作品(『月の熱帯』)の、リニューアルだそうだ。前回の『鳩とカナリア』が観ていたかなり辛かったから、チラシの裏にあった詩森ろばさんの文章をから察して非常に暗く重い話になるのではないかと、ちょっと戦々恐々していた。医療と介護という縦糸と人は老いて死ぬという横糸があり、誰しもが避けては通れないヘヴィーなテーマであったが、劇場が広くなって出演者も大勢で動き回るシーンも増えた分、身に迫って辛くはなかった。笑える場面もあったし。でも、不覚にも涙が滲んだ。自分にとって、近くて遠く、遠くて近い話だったからかもしれない。

男(境利朗)は砂漠にいた。彼にぶつかった少年・砂魚(スナヲ 鉄村夏芽)はこれから学校へ行く途中だという。今は、学校には生徒は砂魚と時雨(中西千恵)、日向(吉岡扶美子)、風民(フウミン 大塚治)の4人しかいない。砂漠の学校、夜に始まる学校。そこへ、蛍(沢村小春)という少女がやってくる。遠足で、地平線の向こう、月の熱帯へ行く途中だというが、実は転校生だった。 男は、歩き続けているうち、涙花(ルカ 大嶋なをこ)という女の子と女の子を捜す蜻蛉(春野きらら)に出会った。男には見える涙花が、蜻蛉には見えない。男は涙花と歩き続け、蜻蛉は女の子を捜し彷徨う。そして砂の学校に蜻蛉が現れたとき、世界が歪み始める。蜻蛉は涙花とは血も繋がっていないし愛してもいないと云い、ついに殺してしまう。 月が満ち赤く燃えるそんな時、蛇ノ目(ジャノメ 水口光代)は最後の授業を通告した。最後の授業とは、現実を見つめることだった。砂の学校は、病院に入院した患者の妄想の世界。時雨、日向、風民は騒ぎを起こさないように拘束される。蛇ノ目に見せられた介護の現実。砂魚と蛍のふたりは、流砂に乗って遠くへ行こうとするが、蛍を呼び止める声によって阻まれ、蛍は自分の砂時計の最後の砂が零れ落ちるとともに病院のベッドへと戻る。砂魚は、蛍のために世界中の時計を盗んでくると約束する。 男は、山奥の老人病院に入院している同級生の見舞いに来た。病室を訊くのに呼び止めた医師から、彼女が亡くなったことを告げられたのだった。

「ゾウの時間ネズミの時間」まで持ち出していたわりには、横糸であるはずの人の死は決められている部分が弱く感じられた。蛍は砂時計の最後の一粒が零れ落ちるのを見て、ベッドへ戻っていったのか?あとの展開からして蛍は死んだんだという解釈をしたのだが、どうなんだろう。同じ入院患者でも、時雨や日向、風民が蛇ノ目=介護側の人間によって強制的におとなしくさせられるのに対し、扱いが違うということは、やはり「死」が見えているからなのかな?それとも蛇ノ目にはどうすることもできない砂魚が一緒だったからか?

細かく感心したのは、砂の学校で蛇ノ目だけ靴を履いていたことである。生徒たちは蛍を含めて裸足でいたのに蛇ノ目が靴を履いていたのは、彼女が彼らとは次元の違う人であることが一目でわかる。水口光代も、少年少女達とは一線を画して接しているという演技だったのだが(それは台詞にもあった)。それと今までの砂の学校での「優しい」蛇ノ目先生が不吉な夜以降に、いわゆる「管理者」っぽく豹変するのも怖かった。仕事として介護する側の気持ちは、最初はどうであれ時を経るごとに「ただ即物的に扱う」となるのかもしれないし、その点で蛇ノ目の言葉はものすごい説得力を持っていた。体感的に現代日本の医療や介護の体勢が十分に整備されているとは言い難いし、何年か前にヘルパーの川柳で患者を物扱いしたものが載ってひどく世間から非難されていたが、涙花を殺した蜻蛉も同根で要は「個人として」か「仕事として」の違いだけであって、どちらも責めるにも責めきれないのではないか。だから「早くなんとかせい」と声高に叫ぶ駅前の人たちや、きっとそういうお芝居もあるのだろうけれど、そういうもの以上に、深かった。


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