ずっと「殺し場はナイフを持った人」と言ってきていて、それは視覚的に刃物を逆手に持った姿が奇麗かな(絵になる)、というくらいなのだけど、これだと一連のナイフ事件の「カッコイイから」というのとあまり変わらないので、もう少しつっこんでみる。
基本的に、ナイフは手に持って刺す(斬る)。手裏剣のように飛ばすことはまずしない。だからである。ナイフは、肉体と肉体とが接触する際の媒体物になりうるからで、飛び道具使ったら、それだけで無機的である。どんなに無表情に感情なんて存在しない顔して殺傷したとしても、それがナイフを持ってやった、というのだったらそこに肉体のコミュニケーション(歪んだ形にはなるが)が在るんぢゃないかな、と思うのだ。返り血を浴びることによって、他者を意識せざるを得ないし。
刃物は、お守りにも使われるように、なんだかトクベツという感じがする。村正の剣は魔剣といわれるけれど、そうした不思議な感じがつきまとう。魔銃は、聞いたことがないし、言葉にしたときひどく間抜けである。
でもまあ、なんだかんだいったって最終的には「奇麗かな」というところに行き着く。宝塚の場合は特に、かっこわるくてもかっこよくみせるし、本当に醜いものはみせない。だから視覚的にぐちゃぐちゃにはならないはずである。私が、星奈優里がナイフ持って無表情で人を殺す役が観たい(痴情のもつれはやだな)、っていったのも、彼女ならそういうのが似合いそうだし、般若みたいだろうな、と思ったからだ。最終的にはやっぱり主観的なのだが。
少年・少女のナイフ携帯は、護身用+「ギフト」の影響かもしれない。「ギフト」制作サイドは、「キムタクがナイフ持ったらカッコイイかな」くらいにしか考えていなかったのだと思う。でも、そんなものだと思う。テレビのフリップも、手作りの場合は、視聴者にとって見やすいようにきれいに作る。字が曲がっていたり図が曲がっていたら、それだけで汚く見えるのだ。フォントは見やすいもので配置は水平・垂直に気をつける(配色にも気をつける)、というのが、「ナイフを持った木村拓哉」に置き換わっただけなのだと、思うんですけれどねえ。
「予言の自己実現」というのは社会学で使う言葉だけど、銀行の取り付け騒ぎを例に挙げると、非常にわかりやすい。「A銀行が潰れるらしい」という噂が伝播して、人が預けたお金をおろしに一度に集まるので、本当に銀行がつぶれてしまう、と言うことで、未来を予言したのではなく、未来の出来事が噂に沿って起こってしまったのだ。最近、宝塚がこういう事態に陥っている。
頭に来るのは、退団の噂である。やめるらしい、と言う話がどこか(そしてネットでぱっと広まる)で起こると、本当にその生徒さんはやめてしまう。物の本によれば、退団を決めてから退団発表するまでが非常に苦しく辛いらしいが、そんな状態の本人がほいほい他人にしゃべるわけでもなし、どうなっているんでしょう。噂によって辞めざるを得ない状況に追い込まれているのではないのか。もしこれを読んでいて該当する人がいたら悪いのだけれど、劇団webページのお便りコーナーで、「○○さんが辞めるという話を聞きました」or「○○さんが辞めるっていうのは本当ですか」と最初に投稿してくる人が煙を立てている張本人、と思っている。最近それだけでなく、作品も噂通りのことがあり、それによってある程度推測できてしまうのも、そしてそれが的中してしまうのも、悲しい。
実は、「ベルばら」のどこが名作なのかわからない。最初にテレビで通して宝塚を見たのは確かにこれだけど、それだけのことである。さて上演を拒否したい理由としては、芝居が時代的に合わない、そのころのラインナップで見たいオスカルがいない、「ベルばら」やってどうする、といったところ。そして最大の理由は、つまらない。「ベルばら」を代表作と言って意気揚々としている劇団(というか某理事長)に対して情けなくなってくる。
宝塚の今の方針では、いつ出てもおかしくなさそうなのだ。昔、「クイズ100人に聞きました」に登場していたけれど、なんだかなあという感じだった。そんなに好きではなかった頃だけど、異様にそこだけ浮いていたのは強烈に覚えている。以来、バラエティー(クイズ番組・ゲストがいっぱいいるトーク番組)にジェンヌさんが出ているのを見るのは辛い。まさか、とは思うけど、季節の節目にある「東京フレンドパークSP」に出演するなんてことは絶対にやめて欲しい。ついでに云うと、テレビへの進出は絶対によした方がいい(広報活動としてマスコミを利用するのはかなり有効なんだけど、宝塚はそこらへんのつき合い方がヘタクソ)。
時代の趨勢としては仕方がないけれど、末席は2500円以下で、席の数を増やして。S席をもったいぶって売るよりも、安い席を座席全体に占める半分ぐらいにすれば、大劇場だってもっと席埋まるはずだ。宝塚のファンは、特定の生徒のファンであっても、他の組の公演を見る人がたくさんいる。特に好きな生徒もなく、どの組もまんべんなく見る人の方がもっと多いのだから、そういう人を大事にした方が劇団の今後にとっては重要だと思うのだ。それに、ダフ値の付いた超プレミアムチケットを買える人ばかりが宝塚ファンぢゃないんだぞ。(1998)
[1] 最近嘆いてしまった。「ウエスト・サイド・ストーリー」のコマーシャルを見たとき、「なんて四季っぽいんだ」と思ってしまったのだ。テレビでコマーシャルしてどうするんだろう。この後の公演もCMするのだろうか。[5]
[2] この間まで学校から駅へと続く道に、ケリーリバースの屋外広告があった。ケイト・ウィンスレットの醸し出していた雰囲気が、態度のでかい千ほさちっぽくておかしかった。通る度にほさちサンの顔が浮かんできて思わず吹き出さずにはいられない。テレビのCMを見ても口元がほころんでしまう。[7]
[3] 月影瞳が夢に出てきた。私は彼女に何かを説明していたのだけど、なんだったかは忘れてしまった。内容も忘れた。ただ、夢を見ている冷静な自分が、「あ、グンちゃんだ」と思ったことだけは覚えている。[6]
[4] 柳花堂さんで「おまけね」と云われてもらった「WEST SIDE STORY」のチラシをなくしてしまった!おかげで、宝塚のチラシ考が書けなくなってしまった。[9]
[5] 「ウエスト・サイド・ストーリー」のチケットは発売日に表向きには完売したのだろうか。個人的事情で観には行かないが、1000days劇場になっても東京公演は満員御礼なのだろうか。[10]
[6] 夢の中に宝塚の人が出てくると、嬉しい気分になれる。暗い設定の時に彼女達が出てこないからだろうか。だけど、星奈優里が出てきた夢には、あまりいい思い出がない。私がすごく恥ずかしい思いをしていたり、彼女が怒っていたり。[11]
[7] そういえば、フジテレビ系列では昼のドラマ「白衣のふたり」(東海テレビ制作)をやっているけれど、前々から小高恵美と星奈優里が似ているような気がするのは私だけだろうか。宝塚で是非ゴジラをやってもらいたいものである。星奈さんついでに云ってしまうと、セコム水ホームユニットのコマーシャルに出ていたときの料理研究家有元葉子とも特に似ている気がするだ。[14]
[8] 麻路さきの退団公演がかの人の演出なんて。観ないうちからすでに出来については諦めてしまっている。いろんなことでかなり私の中では株を下げている植田理事長、もとい植田センセーには是非ともここいらで汚名返上してもらいたい。そして、草野氏はまたうひょうひょのフィナーレなんだろうか。別にいいけど、ここ連続してそんなショーを作っているから「またか」と思わせてしまわないように。[12]
[9] 宝塚のポスターのセンスが悪いと云うことは、歌劇展で証明済だ(私だけかな、そんなこと思っているのは)。地下鉄のホームに貼ってあるポスターを見て心浮き立つものがなく、なんでこっちが照れなきゃならないんだ。擦れているんだろうか。[15]
[10] 2000円の席がたった42席って云うのはどういうことだろう。3500円の席と合わせても88席というのは一体。東京宝塚劇場でD席1100円というのは東宝の良心だと思っていたのだけど、そういう意味では阪急は儲けに走っている。さすが関西の企業である(これって偏見?) 1000days劇場の座席の料金体系は納得がいかない。あちらも商売だから仕方がないって?[13]
[11] そんな中で、雪組の公演を一緒に観に行くというとんでもなく嬉しい夢があった。でもどういうわけか公演には間に合わなかった。[16]
[12] またかと云えば、星奈さんの殺し役について。ほとんど星奈馬鹿になりつつある私は、星奈さんがピストルを突きつけている姿も絵になるなあ、と思う。それはきっと、マレーネ・ディートリッヒの「間諜X27」を観たからだろう。ディートリッヒは綺麗だから、ピストルを持っている姿も様になる。星奈さんは1995年当時グレダ・ガルボのマタ・ハリみたいな役がやりたかったらしい。[17]
[13] 「影武者徳川家康」を見ていたら、音楽が甲斐正人だった。ちょっとびっくり(昔もそんなことがあった)。彼はどういう人なんだろう。それはさておき、宝塚の人がテレビに登場するのはもうちょっと機が熟してからの方がいい。迂闊にテレビに出ると、結局物笑いの種になるだけではないだろうか。今のところは、NHK(日本放送協会)と日本衛星放送株式会社(WOWOW)で十分である。スタジオ・パークに出てくれると嬉しいな。でもNHKは衛星第2のほうでたくさん公演を放送して欲しい。ハイビジョンはそんなに普及していない。
[14] ファミリーランドは、戦前、西の宝塚・東の京王閣(今は競輪場)といって、日本国内の二大アミューズメント施設だったと、京王帝都電鉄の人が言っていた。なのにどうして今はディズニーランドをパクッているんだ。遊園地としても動物園としても中途半端だし。しかも、ディズニーランドのように確固たる哲学がないから、どこから見てもただの物まね。一日かけて宝塚を満喫しようと思っても、あれでは「歌劇だけでいいな」と思ってしまう。
[15] 宝塚の街だからあのポスターはフィットしているのだ。ロッテリアにも張ってあるくらいだ。さすがは本拠地ということだけある。しかし東京だと非常に浮く。異様だから目は引く。あれはあれで非常にわかりやすいのだけど(何をやるのか誰が出るのか一目見てわかるのはすごい)、ぎりぎりまでシンプルにして、写真を使わないのも作って。紙もつるつるではなくて、ごわごわしていたりざらざらしていたりするので。
[16] 身体に負担がかからないように寝るようにしたら、夢の質まで変わってしまい、以前より宝塚の人が出てくる回数が激減した。二夜連続で見てもその後ぱったり見なくなったり、波が激しい。平均して季節に一回出てきたらいいくらいかもしれない。そんな中大ヒットだったのは、ユズミさんとスリッパがお揃いだったから「お揃いだ」と言った夢。会話を交わした人でこんなに嬉しかった人は、星奈さんではなくてユズミさんだった、というのが意外だった。
[17] スパイといえば、「ブラック・ジャック」で、アイリスをやっていた森奈みはるは、ストレートの鬘の時はまるで「X-FILE」のスカリーみたいだった。今宝塚で「X-FILE」をやるんだったら、月組である。真琴つばさのモルダーってかっこいいんぢゃん。(1998)
前評判やいろんな人のいろんな感想を差し引いても、ちっとも楽しめなかった。というのは、谷氏が一体何を思ってこの作品を書いたのかが、全くわからなかったからだ。仮にも、この公演が真琴つばさのトップお披露目である。死ぬという方向に持っていく必要なはかったのではないか。もしかしたら「死→新生」という意味合いがあったのかもしれない。次世代に受け継ぐという意図もあったかもしれない。けれど、まだ「白夜伝説」のほうがましだったし、わざわざ一本立てでやるほどでもないだろう。
一番良かったのが、フィナーレのブラックサファイアだった。それまではこのための長い長い前振りだったのか。それはそれで、時間を返せ、といいたくなる。でも、黒い衣装を着た風花舞と姿月あさとがかっこいいし、深紅色の口紅が映えて綺麗。フラメンコ風の踊りもかっこいいし、このダンスが観れただけで私は満足。
それにしても、イグナシオは何者なのだ。少なくとも文化相対主義者ではない。そして、かなりアナーキーな人である。確かにあの時代のヨーロッパでは彼のような考えをもつっている人は稀だろう。今なら彼みたいな人がいたっておかしくも何ともないけれど、当時ああいうことを云ってたら異端児どころか異教徒扱いではないか。文化相対主義ではないのは、エルドラードに着いてからの言動で明白。エルドラードをヨーロッパの概念で見てどうする。ここでイグナシオは、かっこいいこと言っているけど、メンドーサに成ったってわけだ。彼は、先進国(主に民主主義国)の途上国文化に対する態度の、一種のアンチテーゼかもしれない(そんなはずないか)。
スペインにいた頃のウルバンバの格好は、同じインディオでもいわゆる西部劇で見るようなインディアンの格好であって、メソアメリカ文明やアンデス文明といった古代アメリカ文明を担っていたインディオのものと違う。イグナシオのエルドラードに対する理論展開も腹立つけど、これが一番、何考えているんだと云いたい。アンデスの麓ジャングルの奥深くにあるエルドラードの住人(であるはずの)ウルバンバが、どうしてスペインにいるんだ。それとも、彼はインディオだから、エルドラードの住民ではなかったがエルドラードへの行き方を知っていたってこと?だからネイティブアメリカンの格好していたのだろうか(それにしてもステロタイプすぎるぢゃないか)。
ラウラの子種は誰?やはりワルパだろうな。なんてったって5124番目の妻だから。なぜラウラを逃がしたのか?どうしてでしょう。少なくとも子供ができたから逃がした、ということではないはずだ、大劇場のを観る限りでは。東京では知らないけれど。子供のことは後でわかった。考えてみたら相手はワルパしかいなかった。それにしても、ずいぶん運とタイミングと的中率がいいな。
エルドラードの住民構成が謎。ワルパの妻を全員処刑したらエルドラードから女がいなくなるって、ほかのエルドラードの男性は誰から生まれてきたのだ。
その他たくさん。
あまりにもストーリーが支離滅裂なので、月組の人はやりようがないのでは?とテレビながら思った。なんかみんな声荒げているし、ラウラなんてなんであんなに声を張り上げる必要があるんだろう。船乗りたちも悪い人かいい人かはっきりしないし(そのほうが人間くさい、かもしれないけど、あれでは主体性がないだけのような気がする)。それにやはりひっぱたく場面が多かった。そんなことで普通叩くか?っていうやつ。振り上げて「今度言ったら叩くぞ」というのがオトナぢゃん。すぐに頬を叩かなくてはいけないほど彼らにとって重要なこと、なのかな。とにかく、全体通してみると話としての説得力がない。(1998)
さんざん評価を下げていたものだから、思ったよりは楽しめた。ただ楽しめたのは、真矢みきがおもしろいからなのだけど。内容ではないというところ、植田センセーは自覚したほうがよいだろう。『歌劇』に「菫花一片」なんて書いている場合ではない。
後頭部を打って、まあ翌日とかそのくらいにすっかり目が見えなくなると云うのなら、まだそれなりに納得がいっただろうに。原因が明らかなんだから。前頭部を打ってだんだん視力を失うというのは、設定的にちょっと無理がある。しかも、失明の危機にある人間(当人は目が霞んできているくらいの自覚だったのかもしれない)が土方になって高所で働くなんて、どうみたって矛盾しているのだ。ただ、劇場建設に関わった人を敢えて主役に持ってきたことは十分評価できる。彼らなくしては劇場はできなかったのだし、だからいっそう、泰平の設定には不満が残るのだ。
不満ついでに云うと、詩乃優花が踊っていないのはもったいない。宝の持ち腐れとはこのことを云うのだ。蔦次もしっぽりしていてよいけれど、せっかくの「レビュー」なんだから
みんな揃ってぞろぞろ歩くのは、植田氏の作風なのだと諦める。あまりに登場人物が多くて人間関係が複雑でもわけわかんなくなるけど、巨匠植田氏は、単純すぎてしまう。それが人が大量に剰ることになるのではないだろうか。匠ひびきクラス以下は皆と一緒に出てくるのは、そういうことなのではないかと思う。群衆劇ができることが宝塚の強みだから悪いとは言わないけれど、余った人を捌くために、わざわざ桜内君(の名)を出す必要があったかと思うとそれはまた疑問だ。桜内義雄氏がむかしから宝塚を好きなのはわかるけどさ、そういう人は彼以外にもいるぢゃん。ファン代表としてかもしれないけど、わざわざ個人が特定されるようなことをしなくても良いんぢゃないの。
結局、東宝最後の作品と言うこともあって、通常なら一場面で済んでいた宝塚賛美が一本の作品になってしまった、という印象だった。(1998)
なんか「PUCK」と「エリザベート」を足して割ったみたい。このふたつの作品のコラージュという感じがした。どうしてこれを文化庁芸術祭に出品したのだろう。しかも、成仏する場面なんて「エリザベート」の装置をそのまま使っているしさ。
と思いつつ、結構楽しんでしまったのも事実である。最初の見所はマーガレット(紺野まひる)と思っていたのだけど、結構出番がないのね。星奈優里は、仮面舞踏会での海賊の女も含めると、組替えを控えていたこともあって出番が少なかったんだ。だったら9月いっぱいの出演なんて中途半端なことを劇団はさせなきゃよかったのに。かといって、代役の紺野まひるもよかったかというと、う〜んと呻ってしまう。マーガレットみたいな気の強くて悪巧みに加担しそうな女性というイメージを、紺野には持ち合わせていなかったからかなあ。粗相をしたアラベラ(貴咲美里)に怒るところはちょっと迫力不足。高飛車な感じがあまり出ていなかったのは気のせいかな?ただ星奈さんの場合、こうするだろうな、という予想が立ちやすい部分もあったので、案外それはそれで面白味がなかったかもしれない。
一番おもしろかったのが、ウィリアム(安蘭けい)にマリ−(花總まり)が目撃されるところ。140年前に生きているウィリアムの見る幻影が、140年後に生きているマリーという、現代と過去が交錯し、互いに影響しあっているところが不思議。140年前に記述されたマリーの記録をマリーが読んでいる、というのがドッペルゲンガーよりもすごいね。ここが唯一SFっぽくて、好きである。チャールズ(轟悠)の霊がエリック(和央ようか)に憑依して語り出すところとか、怖いんだけど、見てしまうんだよ。
ただ、現代と過去の二重構造になっているので、どっちもちょっと時間が足りなかったのではないか。いくら星奈さんが組替えって云ったって、私は、マーガレットに関する部分、ウィリアムとどういう結託をしたのか、とかをもうちょっと深く掘り下げてほしかったな。あのあとチャールズはどういう死を遂げたのか、とか。若くして非業の死を遂げ、化けて出て来るということは殺されたってことだろうか。
最後に、どうでもいいこと。エリックたちはアメリカのテレビクルーということだけれど、向こうの人たちは日本と違って、労働時間内と外との区別はしっかりつけている。取材が済んでも、カメラさんはずっとカメラを回しているのではないかな。そのほうが意外なシーンや表情、出演した人の本音が収められるのだそうだ。(1998)
「おおっ! レビュー!!」という感じだった。そして月組の「プレスティージュ」よりも面白かった。次(「ラ・ヴィール」)も雪組は中村B先生なんだよね。またこんな感じのショー(というよりもレビュー)だったら、どうしよう。
いつも思うのは、ドラムの音が軽いな〜ということ。ギターがちょっとカッコイイかなと思ってもドラムが軽くて、気の抜けたコーラみたいだ。それは、「妖艶の恋」のことだ。
「革命」は、もう最高にいい、というくらい好きな場面である。男役さんたちもカッコイイし、未来優希の少年も素晴らしい。セットがなくシンプルなのもいいが、なによりもダンスを引き立たせる音楽が、気に入りなのだ。
さて、この「レ・シェルバン」は途中まで星奈優里が出演していた作品でもあるが、星奈の穴を埋めるダンサーは見あたらないな、と感じた。例えば「革命」では森央かずみが代役として入っていたし、「ラテン」のところでは紺野まひるがそうだった。しかし、星奈ほどダンスにインパクトがあるわけでも、存在感があるわけでもなく、また「9/30までは踊ってたんだろうな」と思ってしまったばっかりに、より物足りなく感じた。
加えて、雪組時期トップ娘役候補が見あたらない。貴咲美里、紺野まひると続くのだろうが、まだ気軽でいられる紺野はともかく、貴咲美里はショーではどこにいるのかさっぱりわからない。これはこれから堪えるだろう。(1998)
麻路さき最後の舞台『イコンの誘惑』は、ぜひとも観に行きたい。バウの千秋楽は、なにを隠そう私の誕生日なのだ。私は、にしき愛・円さくら・ローリー寺西と誕生日が一緒。今年は星組東京公演のチケット発売日とも重なっている。
「イコンの誘惑」は演出が小池センセイだし、なんだか『二人だけが悪』のモスクワ版?ぽくって、ロマンティック・ミステリーだそうだ。ミステリー、なんて素敵な言葉でしょう。しかし、それよりもなによりも星奈さんが元バレリーナというのがよい。きっと、回想シーンとかいってバレエを踊るところがあるだろうから期待してますよ。それと、拳銃を持っている姿も。ふふふ。
政治的にも経済的にも混沌とし、市民とクレムリンとが一発触発という空気や、ロシアンマフィアの台頭、麻薬が絡んだ紛争。そうした状況を抱えるモスクワが舞台である。ただでさえ秘密のある幻の聖教画を巡って物語が進むのだし、期待するな、と言うほうが無理なのだ。タチアーナは、かつて恋仲だったミハイルと、伴侶であるレオナードとの間で揺れる切ないオンナゴコロとか、そんななか過ちを犯しちゃうとか、暗黒の世界と陽の当たる世界のどちらか選ばなくなるとか、いろいろと想像を掻き立てられるのである。
しかし、あまりいろんなことを期待したり勝手に話を作ってしまうと、実際の舞台を見たときに拍子抜けする。しかも小池さんは『エリザベート』を控えて忙しい身なので、お手軽作品にならないよう(マリコさん最後だけあってそれはないだろう)、祈るばかりである。めでたく私の元にチケットが手に入ることも。
ロシアのロックって聴いたことがないので、ロシアのロックを音楽に使ってくれると、いいな〜。自由化の波ということでブリティッシュロックとか、ドイツ統一の余波ということでドイツのロックなんかもいいかな。アメリカは確かに民主主義の手本みたいなところもあるし影響力は大きいけれど、やっぱり大西洋を隔ててしまっているので、地続き(イギリスは島だけどヨーロッパだし)のほうがしっくりくる。
実在の政治家の名前は出さなくていい。ゴルビーは禿げてて好きだし、エリツィンは嫌いだ。市民蜂起の場面が挿入されるかわからないけれど(まあ、ないだろう)、実在の政治家を登場させるのだけは絶対にやめて。
だけれども、座談会を読んでみたら「大人のラブストーリー」とか云っていて、肝心のイコンを巡る話(は、勿論観てのお楽しみなんだろう)に関しては何にもふれていない でもサスペンスロマン(1998)
「自作自演カラーポート」って云うタイトルはなんだかな〜と思ったけど、娘役は本当に企画物が少ないから、こういうのがあると無性に嬉しくなってしまう。ミーミルのモノクロポートが一番の気に入り。足がカラダの半分を占めている。ちょっとだけアンニュイな「天下の月山紀子」っぽい。カラーのほうはパジャマ姿だが、彼女の中では今パジャマが流行っているのだろうか? 完全に「まりたん」状態だよね、あれ 星奈さんもやっぱりモノクロの方がいい。笑っている星奈さんのほうが断然見ていて嬉しくなれる。彼女は今や私の精神安定剤と化しているのだ。
たまにやるんだよね、アンケート。私はあのアンケートを締め切り直前に速達で出したのだけど(〆切にはばっちり間に合う)、そういう反則技の葉書は読んでくれるのだろうか。だけど、理由を書く欄が狭くて書ききらないから、次回からは封書で送るのも可にするか、いちいち理由を聞かないでほしい。
表4は星奈さん2回目。エッセイは6月号よりおもしろかった。ていうか最後のほうちょっと投げちゃった感じがなんともよろしい。
友人に、轟悠のカラーポートの隣に写っている華原朋美を「違和感ないでしょ」と云って見せたら、妙に納得していた。
表4が住友VISAになっていた。サントリー広告撤退か!? なにげにあのエッセイが楽しみだったのに、何とも惜しい。お酒をたしなまない人はちょっと大変だったに違いないが、宝塚の人は酒飲みだという先入観があるので、そんなに苦にはならなかったのでは?
それにしてもカラーポート、ランクが上の人は毎月写っているので、見ていて代わり映えなくってつまんない。娘役は本当にあんまり写っていない。貴咲美里は、なんかいつもとちょっと雰囲気が違うが、年相応というか学食にいたって全然違和感ない。いつもは、『天うらら』(NHK朝の連ドラ)のうららってカンジ。
「浅茅が宿」の座談会を読んでいて、ぐんちゃんが二役だとか誘惑役だとかをやるって云うんで、まだ観に行くかどうか、行けるかどうかわからないけれど、なんだか楽しみになってきてしまった。雪組に来て、まだ帝劇で一回しか見ていないが、なんか開き直った感じがしたので、この調子でうまくいってほしい。真児女関係はホラー部分の要になるので(何しろ「蛇淫の性」なので、壮絶である)、思わず期待してしまう。かしげの妖しい色気は見物でしょう。魔性とか、そういうのに私は弱い。(1998)
こういうのを、寝耳に水って云うのだ。東京公演直前になって、そんなこと言うなよ。と、ここで黒木瞳の退団に似ているな、と思ったのだが、「劇団に辞めてくれって頼まれました」と、あとでトーク番組やら自叙伝やらで暴露されるような辞め方でないことを信じるだけである。
しかし千ほさちは、宝塚っぽいけど宝塚っぽくないというか、なんか変な人という印象があるのだ。花總まりが昔「宇宙人」と例えられていたようだが、そんなこというなら千の方がもっと「宇宙人」っぽいぞ。外見むちゃくちゃ奇麗で、それと反比例して中身が変(よくわからない)感じが好きだ。
CNプレイガイド、チケットセゾンと、発売日特設電話番号になったので、なんだかチケットを電話予約する気がなくなった。今までは、いろんなイベント(コンサートとか試合とか)と一緒だったから、なかなか繋がらなくても「仕方ないな」と思えたのだけど、今度はそうはいかない。「あとでかけ直して下さい」というテープを聞くごとに着々と宝塚のチケットが売られていくのかと思うと、なかなか通じないイライラが増すばかりである。そう、『イコンの誘惑』日本青年館は見事惨敗したのだ。
前は地上波でやっていたのが、衛星放送の登場でBSでばかり放送されるようになった。今は、ハイビジョンで先に放送して、そのあと忘れた頃にBSでやる。いつの頃からか、宝塚特集は国会の時期と重なり延期されるのが普通になった(どうせ暇ネタだけどさ)。 しかしそれ以上に、NHKでの放送が減った。
劇団の方針? それともTCAの戦略? NHKの予算や編成の都合かな? 本当に減ったのだ。トップスターの退団後はたいてい「退団特集」が組まれていたのになくなったし、たまにやる宝塚特集でも「これ前もやってた」という作品のほうが多いし(しかもテーマがない)、時間短縮かなんだか知らないけれど、主要出演者のコメントとか、OGのメッセージとか、確実になくなっている。ロンドン公演(1994)と「雪之丞変化」(1994 雪組)の時は、メイキングをやってて、非常に興味深かった。(先日の香港公演は、録画予約の設定を解除されてしまって見ることができなかったので、メイキングがあったかどうか知らない) なのに、なぜ?
TCAで売っているビデオはまだちょっと高いかな、という気がする。その点テレビは受信料で済む。聞けばWOWOWでは販売ビデオをそのまま流しているらしいが (←宝塚のビデオを流すほうがお金かからない。あの時間は全編宝塚のコマーシャル)、だったら月々の受信料で見放題のほうがいいに決まっている。宝塚が供給するものと、テレビ局が独自撮影して供給するものと違っているほうが、「宝塚ヴァージョン」「NHKヴァージョン」「WOWOWヴァージョン」(「民放ヴァージョン」)と楽しめるのに〜。(1998)